日本を代表する観光都市・京都。
観光地といえば清水寺、祇園、嵯峨野、そして金閣寺、銀閣寺と枚挙にいとまがありません。
さて、その金閣寺と銀閣寺ですが、金閣寺を見た後に銀閣寺を回ると、がっかりしませんか?
銀閣寺が全然銀色に輝いてはいないからです。
金閣寺にはまばゆいばかりの金箔が施されているのに、銀閣寺は地味そのもの。
銀閣寺というくせに、銀などかけらも見あたりません。
「戦乱のどさくさで誰かがひっぱがしてしまったんだろう」と思う人もいるかもしれませんが、真実はどうなのでしょうか。
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金閣寺、銀閣寺の由来
金閣寺と銀閣寺、どちらも臨済宗相国寺の塔頭(たっちゅう)寺院です。
金閣寺の正式名称は鹿苑寺(ろくおんじ)と言い、室町幕府3代将軍・足利義満によって応永4年(1397年)に創建されました。
一方、銀閣寺の正式名称は慈照寺(じしょうじ)といいます。
3代将軍・足利義満の孫、8代将軍・足利義政によって延徳2年(1490年)に創建されました。
金閣寺の舎利殿(金閣)を模して造営されました。
作られた時期におおよそ100年もの差がありますね。
そもそも、慈照寺観音殿が「金閣」と並べ、「銀閣」と呼ばれるようになったのは、江戸時代以降のことなのです。
さて、銀閣寺は金閣寺を模して造られたので、銀閣も銀箔を貼る予定だったと考えるのが普通ですよね。
では、なぜ貼らなかったか。その理由を見てみましょう。
銀閣寺に銀が使われなかった理由
「財政難」説
足利義政が銀閣寺の造営に着手したのは1482年(文明14) のことでした。
その時期は応仁・文明の乱の直後で、幕府は極度の財政難に陥っていました。
そこで資金的に行き詰まり、銀を貼ることができなかったというものです。
確かに一つのお寺のために銀を貼るぐらいなら、街を復興させたほうが有用ですよね。
「銀箔を貼る予定であったが、その前に義政が他界してしまった」説
1490年(延徳2)正月、義政は銀閣寺の完成直前で死没してしまいます。
「財政難」説と併せて、義政は死んだし、お金も不足しているし、銀はもう貼る必要はないのでは?と当時の人が考えても不思議ではありません。
「銀箔を貼らなくても、外壁の漆が日光の加減で銀色に輝いて見えたから」説
これはかなり強引な説です。(笑)
確かに銀色に見えていたとしても、義政が「銀色に見えなくもないし、銀箔を貼らなくてもOK!」と指示したとは考えにくいですよね。
「当初は銀で覆われていたが、剥がれ落ちてしまった」説
京都は日本の中心地だったこともあり、戦乱がとても多い街でした。
そのためそのどさくさで銀が落ちてしまったのだろう。という説です。
しかし金閣寺は定期的に金箔が新しく貼りなおされているのに対し、銀閣寺のみ放置されている、というのは不自然ですよね。
※平成19年1月5日に銀閣寺の外壁などが科学的に調査されました。
結果、銀箔が貼られていた痕跡はなく、内装、外装とも黒漆塗でした。
「創建当時から銀箔は貼られていなかった」ということが分かりました。
「もともと銀を使う予定はなかった」説
足利義満が建てた金閣は政庁としても使われていましたが、銀閣はあくまでも山荘の扱いでした。
つまり政治から逃避するための場所です。
それが銀貼りのきらびやかな屋敷では落ちつきません。
特に義政は政治を嫌い、芸術を好んだ人です。
だから、最初から銀を使うつもりなどなかったというわけです。
そして銀閣寺に銀を施す予定だったことを示す史料は現在も見つかっておりません。
しかし、そうだとすれば、なぜ銀閣と呼ばれるかという新たな疑問がわいてきます。単に金閣寺との対比で後世の人が勝手にそう呼び出したのではないかといっています。
さいごに
いかがでしたでしょうか?
銀が使われない理由がいまだに分かっておらず、あれこれ考えてしまうのは歴史のロマンですね。
いまのところ、この議論に決着はついていません。