こんにちは。
いろはにほへとちりぬるをー と、みなさん一度は口ずさんだこともあるのではないでしょうか。
このいろは歌は、「あいうえお」の五十音を覚えるために使われていました。
意味はありがたい仏教の教えとして知られていますが、実は意味を知ると怖い意味があったのです。
では、もともといろは歌とは何かご説明します。
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いろは歌とは?現代語訳と意味
「いろは歌」とは音の異なる清音の仮名47文字を、一文字も重複させずに読み込んだ手習い歌(てならいうた)の一つです。
手習い歌とは、硬筆や毛筆の仮名を書く練習をするための手本とする和歌のことをいいます。
昔の人は習字をする時には「いろは歌」を使って練習していたのですね。
一般には仏教の教え、涅槃経(ねはんきょう)にある
「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」の教えを和訳した、
仏教の教えを説く歌といわれています。
いろはにほへとちりぬるを (香りよく咲き誇る花も散ってしまう)
わかよたれそつねならむ (この世に永遠のものなどありはしない)
うゐのおくやまけふこえて (迷い多く悲しい奥山を越えて行こう)
あさきゆめみしゑひもせす (人生の儚い栄華に酔わないように)
すべて平仮名だと読みづらいので、漢字仮名交じりに書くとこうなります。
色は匂えど散りぬるを (香りよく咲き誇る花も散ってしまう)
我が世誰ぞ常ならむ (この世に永遠のものなどありはしない)
有為の奥山今日越えて (迷い多く悲しい奥山を越えて行こう)
浅き夢見じ酔いもせず (人生の儚い栄華に酔わないように)
これを読むと、すべての仮名を一度だけ使って仏教の教えを見事に表現していますね。
作者は空海だった?
この説は大江匡房による『江談抄』という平安時代に説話集を集めた本にも見られており、
平安後期にはすでに広く知れ渡っていたようです。
空海は仏教だけでなく歌人としても有名で、留学先の唐で絶賛されるほど才能がありました。
そんな才能あふれる空海であれば、仮名を重複せずに全部使い、さらに仏教観を歌にすることもできたであろう。というとても曖昧な理由で作者=空海説が広がっていました。
現在ではこの説はほぼ否定されています。
国語学的な見方から、歌の成立は平安中期頃とされています。
呪いの歌としての解釈
ではなぜこの「いろは歌」が呪いの歌と言われているのでしょうか。
本来、和歌というのはで五・七・五のリズムで区切りますよね。
日本最古の「いろは歌」は「金光明最勝王経音義』(こんこうみょうさいしょうおうきょうおんぎ)(承曆3年、西暦1079年!)という仏教の解説書の冒頭に記されてます。
そこでは「いろは歌」は7音で区切られています。
いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす
区切り方はとても不自然ですよね。
そしてこのそれぞれの行の下の文字だけを読むと「とかなくてしす(咎なくて死す)」、
つまり「罪がないまま死ぬ」となるのです。
実はこのことは昔から知られていて、江戸時代の国語辞書にも記されていたのです。
当然学者たちは「単なる偶然」と片付けたが、それにしてはあまりにもでき過ぎていますよね。
国学者の黒川春村(はるむら)は『碩鼠漫筆』(せきそまんびつ)(安政6年·西暦1859年)で
「諸行無常を詠み、手習いとしても広まっているいろは歌に、忌まわしい言葉が含まれているのはよくないことだ」と嘆きました。
江戸時代の儒学者の貝原益軒も子供の手習いには「あいうえお」を勧め、
「いろは歌」を「益なき」と切り捨てています。
深く立ち入ろうとはしないが、学者たちも「いろは歌」に不吉なものを感じていたのですね。
江戸時代から「いろは歌」は不吉な歌と認識されていたのは驚きですね。
作者は誰なのか?恨みを残して死んだ歌人が書いたのか?
この暗号のような言葉は昔から多くの人の好奇心をかき立てました。
そして、作者を見つけようとさまざまな説ができました。
強大な権力によって、罪なくして殺されたであろう歌人、もしくは才能に溢れ、秀でた芸をもった貴人などという説があります。
菅原道真説
彼は詩人として名高く、学者としては異例の出世を遂げて右大臣の地位にまで上り詰めました。
しかし、優秀すぎたために藤原時平(ときひら)に妬まれ、事実を捻じ曲げられ九州へ左遷。
太宰府に流されます。
絶望と憤怒の中で死んだ道真は雷神となって都に祟ったとされ、祟りを収めるために太宰府天満宮が作られました。
左遷を「咎なくて死す」と表現するものか、少し怪しいところもありますが、
藤原道真の能力と境遇を考えると信憑性はありますよね。
小野篁(おののたかむら)説
彼は空海と同時期の学者詩人であり、天皇からの期待も大きい高級官僚でした。
しかし、直情型の彼は藤原氏の横暴に腹を立て、
職務拒否のうえに朝廷を批判する詩を書いて流刑にされました。
いつの時代にもこういう人はいるのですね。
小野には不思議な伝説が多く、昼は朝廷で官吏を、夜は地獄で閻魔大王の補佐!をしていたといいます。
天才でありながら、権力を恐れずに対峙した彼は後世の人気が高いです。
しかし、彼はのちに朝廷に呼び戻され、官吏として復位していることから、
呪いの歌をつくるほど冷遇されたとはいえません。
柿本人麻呂説
彼はあまりの才能に「歌聖」と称され、万葉の頃の宮廷歌人として朝廷に仕えていました。
『古今和歌集』(延喜5年·西暦905年) によると高級官僚であったと推測される表記があります。
だが、彼について歴史書には記載がなくその死は刑死であったのではないかといわれています。
定説とされる平安時代よりさかのぼりますがこの説を支持する人も多いです。
最後に
今なお謎に満ちた「いろは歌」。
これらの伝説は「いろは歌」の完成度が高すぎ、またはっきりとした資料が残っていないからこそ生まれたといえます。
我々現代人も含め、昔から人は歴史のかげに埋もれ、無実の罪で死んでいった無数の怨念をこの歌にのせていったのです。
コメント
S24年頃 君が代は千代に(ましませ)さざれ石の巌となりて…というのが、勅撰和歌集だったかに詠み人知らずであり、この場合明らかに君は二人称で祝い唄だと教えて頂きました。
疎開でみえていた京大の助教授をされていた片岡勇三郎先生で(当時の婦人雑誌レギュラー美容師マヤ片岡片岡の兄弟と聞いてます。)