豊臣秀吉の刀狩の真の目的は?身分統制令や太閤検地の関係とは?

「刀狩り」とは、豊臣秀吉が天正13(1585)年から断続的に行なった、農民(百姓)から武器を没収した政策のことです。
ではその刀狩りを行った真の目的は一般に歴史の教科書に書いていることとは異なります。

刀狩りの目的は農民一揆を防ぐためではなく、帯刀権の剥奪だった

これはどういう意味なのか、下記に開設します。

そもそも、刀狩り とは?

羽柴秀吉が行った有名な政策の一つの刀狩令。
天正13(1585)年に発令されたこの政策は、一般的に百姓から武器を取り上げ、一揆を防止するものとされています。
これは主に奈良興福寺の「多門院日記」などの記述によるものとされています。だが実際には、この刀狩りは農民の武力解除というよりは、
農民の帯刀権を奪い、武士と農民の身分を分ける「兵農分離」に重点を置いた政策だっといえます。
この頃は江戸時代のような身分制度はまだ存在しておらず、武士と一般農民の厳格な区別は存在していなかったのです。
平時は農民として過ごしながら、戦時には足軽として合戦に赴くという姿も一般的であったとされています。
そのため当時の「一揆」も江戸時代の場合と異なり、農民の蜂起と武士の反乱のどちらとも捉えられるものでした。
刀狩りは名目上「刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる」としながらも、刀以外の狩猟用の鉄砲などは所持を許可される場合が多かったのです。また槍や弓なども没収されず、刀に関しても一人につき大小一腰を差し出せばよい、という杜撰な形式まで存在していました。
このように刀狩りは実際に厳密に調査が行われたわけでなかったのです。
担当武士が直接赴かず、各村に内容を任せる形で行われたことも多かったといいます。
そのため刀狩り施行後も農村には依然として多くの武力が残存していたといわれています。
これは刀狩りが「武力解除」を名目としながら、その実質が農民の帯刀権や武装権を奪い、帯刀を免許制にするための建前の色合いが強いこと表しているといえます。

秀吉がこうした兵農分離を推し進めた背景には、一揆などの脅威を取り除くと同時に、身分をはっきりさせ、農民を武士に戻らせないようにしたことで各地の大名の兵力を減らす目論見があったと言われている。また同時期行われた太閤検地を合わせ、農作物の生産力や年貢を安定させるという狙いもあったとも考えられています。
秀吉はこうした下地を作ったうえで、天正18(1590)年には「浪人停止令」を出し、武家に勤める奉公人以外の百姓の武装禁止を強め、武家奉公人との違いをさらに明確にしています。
そしてその翌年には「身分統制令」をさらに加え、武家奉公人が百姓や町人になること、同時に百姓や商人や職人に転職することを禁止しました。これにより各職業が固定化され、年貢や奉公人の供給もより安定するようになったのです。
この秀吉が行った一連の政策は、兵農分離農商分離を推し進めるものでありました。
刀狩りも単なる農民による一揆の防止策ではなく、こうした大きな政治目的に先立つものでありました。

太閤検地

豊臣秀吉が天正10年(1582)から始めた土地調査のことです。
「天正の石直し」「文禄の検地」とも呼ばれています。
明智光秀を討った直後から、秀吉が逝去する慶長3年(1598)まで続きました。
これは耕作権を保証するとともに年貢負担者とするなど、従来の検地に比べて、規模・方法ともに完全に一新した画期的な事業でした通常このような見地では家臣や有力者の抵抗は大きいので、実施は難しいと考えられていました。
それを全国規模で行ったのが豊臣秀吉の太閤検地だったのです。

身分統制令

かつては江戸時代の身分制度の固定化に先立つ政策であると考えられていた時期も存在しました。
しかし近年ではそれは間違いであるとされています。
この法令の背景には朝鮮出兵(文禄・慶長の役)があり、むしろ武家奉公人(若党)の確保を安定させる意味合いが強かったのです。
これは身分制度の固定化というよりは、江戸時代の奉公人制度に近いものと考えることができます。

他の大名の刀狩

秀吉は刀狩令の文面に「農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮らせる」という内容を記述しており、この点からも兵農分離を進めようとしていたことが確認できます。
また刀狩というと秀吉の行ったものが有名ですが、柴田勝家も「越前刀行政」として刀狩を行っています。最も勝家の場合は寺社を中心に、武器の増減を都合よく行うことが目的でした。

合戦の最前線で戦っていたのは農民だった??

戦国時代の戦いにおいて兵の約9割を占めていたと言われるのは足軽と呼ばれる歩兵でした。
そしてこの足軽の大部分は各大名配下の農民達が戦場に駆り出されたものでした。
現在の視点から見ると農民たちは無理やり戦場に駆り出されていたように思われるかもしれませんが、実際は必ずしもそうではありませんでした。
この時代の食料生産量は人口に対して低く、農村では飢餓の有無に関わらず慢性的に餓死者が出る状態でした。
そのため農民たちは自分の村から餓死者を出さないために、戦に勝ち相手側の物資を略奪する必要があったのです。
なので農民たちは積極的に戦を望み戦場へ赴くことも多かったと言われています。

スポンサーリンク
336×280




336×280




シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク
336×280