勝海舟の死因は脳溢血だった!墓所は西郷隆盛と関係のある洗足池にある

山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる勝海舟。

江戸無血開城もやってのけた幕末のヒーロー。

明治時代になってからは明治新政府の要職についたり、辞めたりと自由気ままな生活を送っておりました。

そんな勝海舟の最期とは、死因とは何だったのでしょうか。

勝海舟、旗本の子として生まれる

勝海舟は文政6年1月30日(1823年3月12日)、江戸本所亀沢町(現在の墨田区両国四丁目、亀沢一丁目、石原一丁目当たり)に生まれます。

江戸生まれ江戸育ちの生粋の江戸っ子ですね。

犬に噛まれて 瀕死の重傷を負っ

勝海舟は9歳の時、野良犬に噛まれて陰嚢に重傷を負いました。

医者が傷口を縫いましたが、消毒が適切ではなかったのでしょう、細菌感染したとみられ、高熱を発し、時は生死の境をさまよいます。

しかし、生殖能力を失わず、狂犬病にも感染していなかったのは不幸中の幸いでした。

その後は大きな病気もなく、剣術や柔術の修行に明け暮れ、健康的に過ごしています。

ただしこの事件によって犬が苦手になってしまい、犬の大きさに関係無く死ぬまで苦手にしていました。

性欲は旺盛だった

勝海舟は負けず嫌いで極度の短気でした。

気に食わないことがあれば何日でも口を利かないことがあったといいます。

しかし、精神的には安定していたようで、そんな自分の性格は自覚していました。

交渉ごとではそれを利用していた感もあり、食えない男ではありました。

また、妻の他に妾が5人もいて、4男5女をもうけており、現在でも子孫が存命中です。

中年期を過ぎても絶倫だったようですね。

最後は脳溢血で死亡。名言「コレデオシマイ」

72歳の時に連鎖球菌( れんさきゅうきん )感染症で体調を崩すが大事には至りませんでした。

政府に対しては相変わらず、歯に衣着せぬ毒舌家ぶりを発揮していました。

しかし、77歳の時に、便所から戻ってきたところで昏倒しました。

額から脂汗を流して苦しみだし、気付けにブランデーをひと口飲んだところで意識を失います。

急いで医師を呼ぶが、すでに手遅れで、その日のうちに息を引き取りました。

最後には「コレデオシマイ」と言ったとされています。

逸話だったとしても、彼の性格がでていますね。

当時の状況からして、現代医学では死因は「脳溢血」とされています。

勝が亡くなる直前の様子について、長年女中を務めていた増田糸子がこう話しています。

「あの日は、お湯からお上りなすって、大久保の帰るのは(大久保一翁の子供の帰朝)昨日だか、今日だっけと、仰しゃっただけで、それからハバカリからお出になって、モウ褥の方へいらっしゃらず、ココの所へ倒れていらっしゃいますから、ドウなすったかとビックリしました。死ぬかも知れないよと仰しゃって、ショウガ湯を持って来いと仰しゃいましたが、間に合いませんから、ブランデーをもって参りました。油あせが出るからと仰しゃいますので、お湯はその時モウ落としてしまいましたから、あちらで取って参りましたから、それで一度おふきなすったのです。それで、奥さまに申し上げまして、コチラにお出でになりました時には、モウ何とも仰しゃらず、極く静かにお眠りでした。」

勝海舟のお墓

勝海舟のお墓は東京都大田区洗足池(せんぞくいけ)にあります。大田区の文化財に指定されていますね。

なぜ洗足池にお墓があるのでしょうか。

幕末、勝は江戸総攻撃中止と、江戸城無血開城を西郷隆盛に直談判しにいきました。

官軍である薩摩藩の本陣は池上本門寺にありましたが、そこへ向かう途中に洗足池のほとりで休憩したといわれています。そこで勝は洗足池の風景に目を奪われました。

明治維新後、1891年に洗足池のほとりに別邸「洗足軒」を建てます。

その「洗足軒」の近くにお墓を作ったというわけですね。

さて、「洗足軒」では西郷隆盛もここで勝と歓談したと言います。

その後「洗足軒」は戦災で焼失してしまいますが、お墓は残っているというわけですね。

また勝夫妻の墓の隣には「西郷隆盛留魂碑」が建っています。

西郷は西南戦争で亡くなってしましますが、それを知った勝は当時の東京府南葛飾郡の浄光院境内に自費で建ててしまいました。

1913年(大正2年)に荒川放水路開鑿に伴い、当地に移建されたのですね。

最後に

いかがでしたでしょうか?

幕末のヒーロー、勝海舟。

他の英雄たちと比べてその最後はあっけない感じはしますが、勝らしい最期だったかもしれません。

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