漫画【キングダム】の出来事と、史実の出来事を年表にまとめました!
昭王の即位~秦の滅亡までです。
年号
(BC) |
史実のできごと | 詳細・作中のできごと |
306年 | 昭王即位 | 政の曽祖父・昭王が秦王に即位。作中では「六大将軍」制度を作り、数々の戦に勝利したことによって、「戦神」と称された。 |
295年 | 楽毅[がくき]が燕の将軍になる | 燕王が人材を求めていると知り、魏から燕に移住する。同じ時期に劇辛も趙から燕に仕官していた。 |
284年 | 斉と合従軍の戦い | 燕・魏・趙・秦の合従軍が斉を攻撃。燕側の総大将は楽毅。斉は70数個の城を落とされ、滅亡寸前まで追い込まれたが、楽毅の活躍で存亡の危機を脱した。 |
269年 | 閼与[あつよ]の戦い | 六大将軍・胡傷が率いる秦軍と三大天・趙奢の趙軍が交戦。戦いは趙軍の勝利で終わった。 |
260年 | 長平の戦い | 趙と秦の戦い。「六大将軍」白起率いる秦軍が、「三大天」趙奢の子である趙括を破り、趙兵40万人が生き埋めにされた。「キングダム」作中に登場する万極は、この戦いの生き残りとされている。なお、作中では王騎がこの戦いに従軍しているが、史実では王齕が出撃している。 |
259年 | 嬴政[えいせい](後の始皇帝)誕生 | 趙の都・邯鄲で政が誕生。父は昭王の孫・子楚(後の荘襄王)。母は呂不韋の元愛人・趙姫(作中の太后)という説もある。 |
258年 | 邯鄲[かんたん]包囲戦 | 王齕率いる秦軍が、趙の首都・邯鄲を包囲。魏と楚が趙の救援に参戦したために、秦軍が敗北。このときの楚の参戦を決定したのは戦国四君・春申君。当時簡単には子楚と趙姫、政がいた。子楚は呂不韋の手引きで脱出するが、趙姫と政は取り残されてしまう。 |
252年 | 呂不韋、丞相に就任 | 子楚を助けた功績により、秦の丞相となる。同時に「文信侯」と号し、領地も与えられた。 |
251年 | 昭王死去 | 息子の孝文王が王位を継ぎ、子楚が皇太子となる。作中では、昭王が王騎に遺言を残したとされている。 |
250年 | 荘襄王[そうじょうおう]即位 | 孝文王が死去。子楚が荘襄王として即位。政は皇太子となり、趙の都、邯鄲から送り返される。作中では闇商人・紫夏の助けで脱出している。 |
246年 | 政(始皇帝)即位 | 荘襄王が死去し、息子の政が13歳で即位。実権は丞相・呂不韋に握られていた。 |
245年 | 廉頗[れんぱ]が趙から出奔する | 廉頗が将軍職を罷免され、魏に亡命する。作中では、このころ王弟の成蟜が反乱を起こしている。 |
244年 | 王騎[おうき]死去 | 最後の六大将軍・王騎が死去。作中では李牧の率いる趙軍に追い詰められ、龐煖との一騎打ちで戦死している。 |
243年 | 趙と燕の戦い | 劇辛率いる燕軍と龐煖の趙軍が戦い、趙が勝利。作中では龐煖が燕の大将軍・劇辛を直接殺害している。 |
242年 | 秦が東郡[とうぐん]を設置 | 蒙驁が魏との戦いに勝利。東郡が設置される。作中では魏に亡命していた廉頗が魏軍を指揮していた。 |
241年 | 函谷関[かんこくかん]の戦い | 趙・楚・魏・燕・韓の合従軍が秦を攻撃。史実では合従軍の最高司令官は龐煖。作中では楚の春申君が総大将、趙の李牧が実質的な指揮官になっている。 |
240年 | 蒙驁[もうごう]死去 | 「キングダム」では孫の蒙恬とその戦友・信に、王賁と3人で大将軍を目指せと言い残していた。 |
成蟜[せいきょう]の反乱 | 作中では呂不韋に陥れられたことになっている。なお「史記」には「将軍壁死」という記述があり、信の友人である壁が死ぬのではないかと思われたが、彼は生き延びた。 | |
秦と燕が同盟を結ぶ | 蔡沢が燕との同盟を結ぶことに成功した。燕は人質として王太子・丹を秦に送った。 | |
238年 | 嫪毐[ろうあい]の反乱 | 太后・趙姫の愛人となり、権力を握った嫪毐が反乱を起こす。史実では彼と太后の間にできた子どもたちも処刑された。 |
春申君[しゅんしんくん]暗殺 | 最後の「戦国四君」・春申君が暗殺されている。作中では彼を暗殺した李園が宰相の地位を継いでいるが、そのような史実はない。 | |
236年 | 龐煖[ほうけん]最後の活躍 | 龐煖が再び燕を攻める。その隙を突いて、秦の王翦・楊端和・桓騎の軍が趙を攻撃。これ以降、龐煖の名前は史書の中に登場しない。 |
呂不韋自害 | 政から流罪を言い渡され、処刑が近いと感じたためか、服毒自殺した。 | |
234年 | 李牧が大将軍に復帰 | 辺境に左遷されていた李牧が大将軍に復帰した。 |
233年 | 李牧、桓騎の進軍を撃退 | 桓騎の率いる秦軍が、李牧の趙軍に敗北した。桓騎は処罰を恐れて燕に亡命した。名前を樊於期と改めたいう説があるが、作中ではこの二人は別人となっている。 |
230年 | 韓の滅亡 | 大将軍・謄の指揮する秦軍の攻撃で首都が陥落。韓王は捕虜となり、六国の中で最初に滅んだ。 |
229年 | 李牧処刑 | 秦の離間策によって、大将軍を罷免された李牧。その直後に趙王の命令で処刑されたという。 |
秦の太后が死去 | 嫪毐の死後、太后が政からどのような扱いを受けていたのかは不明である。 | |
228年 | 趙の滅亡 | 王翦・楊端和・羌瘣の攻撃によって滅びる。作中で将軍を目指すと宣言していた羌瘣だが、この時期にはすでに将軍になっていたようである。 |
趙の残党が「代」を建国 | 逃亡した趙の太子が代王を名乗る。 | |
楚の幽王[ゆうおう]が死去 | 幽王は李園の妹の子。作中では前王に他の子はいないことになっているが、史実では弟の哀王が即位。しかし、彼は即位後間もなく殺され、庶兄の負芻が王となる。 | |
227年 | 始皇帝暗殺未遂事件 | 燕の刺客・荊軻による始皇帝暗殺未遂事件。なお、荊軻は秦から燕に亡命した樊於期の首を手土産にし、皇帝に謁見したという。 |
226年 | 秦が燕の太子を
討つ |
王翦・王賁親子が燕の首都を落とし、燕は事実上滅亡した。(燕王は脱出し、亡命政権を樹立した。)なお、燕の太子・丹を李信が討ったという記述が残っており、信はこの手柄で将軍になった可能性が高い。 |
昌文君死去 | 作中で始皇帝・政の側近として描かれる昌文君が、この年に亡くなっている。 | |
225年 | 魏の滅亡 | 王賁の攻撃で魏が滅ぶ。 |
224年 | 李信が楚の項燕に敗れる | 李信、蒙恬が20万の兵力で楚を攻めるが、楚の大将軍・項燕の前に敗れる。 |
223年 | 楚の滅亡 | 王翦・蒙武が60万の兵力を率いて楚を攻め、滅亡させる。 |
昌平君の反乱 | 楚の皇族の血を引く昌平君が楚王を名乗り、大将軍・項燕と協力して反乱を起こすが、王翦・蒙武に討たれる。このとき戦死した項燕の孫が、のちに秦を滅ぼす項羽である。 | |
燕の滅亡 | 王賁が逃亡していた燕王を討ち、燕が完全に滅亡する。 | |
代の滅亡 | 王賁が代国(趙の残党)を滅ぼす。 | |
221年 | 斉の滅亡、
秦が中華を統一 |
李信・蒙恬・王賁の3将軍の攻撃で斉が滅ぶ。
これによって秦が中華を統一した。 |
215年 | 万里の長城の建設開始 | 蒙恬が匈奴を攻め、北方に追いやる。また彼は政の命令で万里の長城の建設に着手した。 |
213年 | 「焚書」[ふんしょ]が行われる | 始皇帝の命令により、医学・占い・農業以外の書物が焼かれた。李斯の進言を受け入れたもの。 |
212年 | 「坑儒」[こうじゅ]が行われる | 始皇帝に反対した460人の儒学者が生き埋めにされた。しかし、すべての儒学者が弾圧されたわけではなく、秦に仕え続けた者たちもいた。 |
210年 | 始皇帝・政が死去 | 始皇帝が旅の途中で死去。側近の李斯と趙高が権力を握るために遺言書を改竄し、後継者の扶蘇を自殺させ、無能な胡亥を帝位につけた。 |
蒙恬自害 | 二世皇帝・胡亥の命令により、蒙恬が自害する。弟の蒙毅も殺され、蒙一族は滅亡した。 | |
208年 | 李斯[りし]処刑 | 趙高と仲間割れを起こし、趙高に殺された。 |
趙残党の反 | 王離将軍が鎮圧に向かう。彼は王賁の息子で、王翦の孫にあたる。 | |
207年 | 王離[おうり]将軍、項羽に敗れる | 趙残党の救援にやってきた項羽に敗れ、王離は捕虜となる。その後の消息は不明である。 |
二世皇帝・胡亥[こがい]暗殺 | 趙高が反乱を起こした劉邦に協力されているという噂が流れる。処刑を恐れた趙高は、逆に皇帝を暗殺した。 | |
趙高[ちょうこう]処刑 | 秦の王族・子嬰により、趙高とその一族が処刑された。 | |
最後の秦王・子嬰[しえい]が即位 | 各地で反乱が起き、秦の力は弱まったため、彼は皇帝=中華の統一者とはみなされていない。 | |
206年 | 秦の滅亡 | 子嬰が劉邦に降伏し、秦は滅亡。その後、その項燕の孫・項羽によって王族は皆殺しにされ、首都・咸陽は焼き尽くされた。中華統一からわずか15年後のことだった。 |
今は秦の滅亡までの年表ですが、項羽と劉邦の戦い~漢の成立までも年表に追加したいと思います!