水戸黄門こと、水戸光圀は全国を旅してない!?旅路は関東のみだった

テレビ番組でおなじみの黄門様こと水戸光圀は、天下の副将軍として助さんと格さんをお供に諸国を漫遊しました。

その先々で出会う悪い代官や商人を懲らしめたといいます。

格さんが印籠を片手に「この印籠が、目に入らぬか!」というシーンは一度は見たことがあると思います。

そんな黄門様のファンもびっくり、実は全国など放浪しておらず、果ては若い時には辻斬り(無実の人間を斬る)もしえちたというエピソードを紹介します。

そもそも、水戸(徳川)光圀とは?

水戸光圀(16281700)は初代水戸藩主·徳川頼房(よりふさ)の三男に生まれました。

頼房は徳川家康の十一男なので、水戸光圀から見て、徳川家康は祖父に当たります。

光圀の母、久子は身分が低く側室にもなれませんでした。

久子が光圀を身ごもった時は、父の頼房は堕胎するように命令します。

なんとか光圀はなんとか生まれてきますが、幼少の頃は家臣の家で育てられます。

そこから自らの境遇に発奮して勉学に励んだといいます。

そして将軍·徳川家光に気に入られ、水戸藩を相続すると幸運に恵まれ、徳川御三家の1つ水戸徳川家の当主をつとめました。

ドラマ・水戸黄門とは?

は元禄、「犬公方」こと五代将軍徳川綱吉の治世。隠居した光圀はお供の俳人を連れて、諸国漫遊を兼ねて藩政視察の世直しの旅に出る。悪政を行なう大名・代官などがいれば、光圀は自らの俳号「水隠梅里」を書き記すなどしてその正体をほのめかし、悪政を糾す。しかしながら光圀が正すのは局所々における役人の不正であり、時には身分制度の掟で結ばれない恋人同士に粋なはからいを示すことなどはあるが、身分制度の矛盾を根本的に正す社会改革にまで踏み込んだ対応を試みようとすることはない。Wikipediaより

2011 (平成23 )年、12月をもって人気テレビ番組「水戸黄門」が放送を終えてしまいました。

時代劇ファンにとっては残念な出来事でしたね。

1979 (昭和54 )年にはドラマ史上2位の43,7% (関東地区)という驚異的な視聴率を記録しましたが、さすがに時代の流れには勝てなかったようです。

「黄門様」こと徳川光圀は全国各地を漫遊し悪い代官や商人を懲らしめていました。

江戸時代前期、徳川御三家の1つ水戸徳川家の当主をつとめた人だから、葵の紋をもち歩いても文句はいわれません。

ところが現代では、これまでテレビドラマや映画によって伝えられてきた活躍を、史実として信じる専門家や研究者はほとんどいません。

副将軍という役職は江戸時代にはない

格さんが印籠を手に「ここにおわすは天下の副将軍、水戸光圀公なるぞ」と言い放つおなじみのシーンがありますが、この「副将軍」という職名は室町時代にはあったものの、江戸時代にはありませんでした。

自分が勤務する会社に副社長という役職がないのに、社員が外で勝手に「副社長です」と挨拶しているようなもので、本来ならゆるされません。

ドラマを作る上で「徳川光圀=天下の副将軍」としたのでしょうね。

助さん、格さんは?

お供の助さん格さんも、モデルになった人物は実在しました。

助さんこと佐々木助三郎の モデルになったのが佐々介三郎宗淳。

格さんこと渥美格之丞のモデルになったのが安積覚之進澹泊。

2人とも文官であって、剣術の達人というわけではありませんでした。

全国を旅していた?

また問題とされているのが、黄門様の諸国漫遊です。

テレビの黄門様ご一行はいつも日本のどこかを歩き回っていました。

これが史実であるなら、ご一行はほとんど水戸に帰っていないことになりますね。

ところが、本物の光圀は、実は関東地方から外へ一歩も出ていないといいます。

子どもの頃、父の頼房に連れられ熱海や鎌倉に行ったことはあるようです。

しかし成人してからは47 歳のときに船で鎌倉に行ったくらいだといわれています。

結局、光圀は江戸の大名屋敷と常陸太田の隠居所:西山荘(さいぜん)を往ったり来たりしただ けだったのです。

ではなぜ、こんなにも水戸黄門の全国の旅が有名になったのでしょうか。

これは講談師(講談の口演を職業とする人)のつくり話といわれています。

諸国を廻ったという鎌倉幕府の執権·北条時頼の「廻国伝説」を元ネタにしました。

さらに十返舎一九の『東海道中膝栗毛」を加味してつくった話が、漫遊記です。

ではなぜ、黄門様が漫遊記の主人公になったのでしょうか。

『大日本史』の編纂をしていた黄門様を主人公に

その漫遊記の主人公に光圀が選ばれたのは、光圀が『大日本史』の編纂をライフワークにしていたからだといいます。

光圀はこの歴史書を編纂するために、介三郎宗淳と覚之進澹泊に諸国を歩かせ史料を収集させていました。

その2人の全国行脚が、諸国漫遊の原型になったのですね。

つまり漫遊記は講談師の創作で黄門様の活躍は史実ではありませんが、少しは反映されています。

実在の光圀は隠居所にいた頃、ときどきお忍びで領内を歩き回って巡視したり、農家の人たちと交流したりしたと伝えられています。

そんな一面は、たしかに気さくな黄門様を連想させてくれますね。

しかし傍若無人で残忍だった

そんなきさくなイメージのある光圀ですが、小さい時から勝気で負けず嫌いでした。

傍若無人なところも多々あり、若い頃には江戸市中で遊び歩き蛮行も働いたといいます。

興味本位で辻斬りを働き、罪もない庶民を殺したこともありました。

老齢になってからも、徳川綱吉の生類憐れみの令に反対して、犬の毛皮を贈って激怒させたことがあります。とんでもない老人ですね。

光圀は大酒飲みで酒乱だったと いうから、時折みせる残忍さや突発的行動は、アルコールも影響していたのかもしれません。

光圀の最期

また美食の探求にも熱心でした。中国の学者から中華料理を教えられ、さまざまな珍味を作って楽しんだといいます。

ラーメンを日本で初めて食したことでも知られます。

光圀は72歳の時、喉がつかえて食欲不振に陥ってしまう。

最後は衰弱して死亡しています。

大酒がたたり、食道がんを患っていたという研究結果もあるようです。

おわりに

いかがでしたでしょうか?

光圀公をまとめると、

・全国は旅していなかった。

・ほとんど水戸領地内で暮らす。

・昔は残虐な性格であった。

・好奇心が旺盛。

・アルコール好き。

・「大日本史」を手がける。

でした。みなさんが想像していた光圀公のイメージが変われば、幸いです。(笑)

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