宮本武蔵は巌流島の戦いで遅刻していなかった!佐々木小次郎との勝敗は?

宮本武蔵と佐々木小次郎の戦いと言えば、巌流島の戦いですよね。

宮本武蔵が巌流島に予定より遅れて到着し、佐々木小次郎苛立ちます。

それを見た武蔵の「小次郎、敗れたり。」のセリフは有名です。

しかし現在では武蔵は遅刻していなかったという説があります。

え!?なら真実は何!?どっちが勝ったの??とても気になりますが、

まず、巌流島戦いとは何かを解説します。

あらすじ:巌流島の戦いとは?勝敗は?

従来の説。

1604 (慶長9)年、21歳の武蔵は吉岡一門を倒すなど、剣豪として有名でした。

その8年後の1612 (慶長17 )年、29歳の武蔵は、小倉藩(現北九州市)細川家の剣術指南役(剣術を指導する人)·佐々木小次郎との他流試合を細川家に願い出ました。

当時、小次郎の名前は西日本中に知れ渡っていたといいます。

つまり、とても強くて有名な佐々木小次郎を倒せば、さらにおれは有名になるぞ!

と考えたのですね。

そして決闘の日は413日の午前8時ごろと決まり、巌流島には船でくるように指示されます。

巌流島では佐々木小次郎は決闘の相手である宮本武蔵が来るのを待っていました。

ところが当日の朝、武蔵は定刻を過ぎてもあらわれません。

みなさんご存知の通り、武蔵はわざと遅れて到着し、小次郎をいらだたせる、いわゆる「じらし戦術」に出ます。

10時頃になってようやく武蔵が到着します。

しかし、武蔵は木刀を手にし、海の中に立ったまま島に上がろうとしません。

いらがった小次郎が波打ち際まで歩み寄り、刀を抜いて、鞘を海中に放り投げます。

するとそれを見た武蔵、「小次郎、敗れたり。」

「何を・・・」と小次郎がいいかけると、

武蔵は続けて「勝つものがなぜ鞘を捨てるのか」と言いました。

怒った小次郎が真っ向から斬りつけると、武蔵も木刀で打ち込みます。

小次郎の刀は武蔵の額の鉢巻を切るに終わったが、武蔵の木刀は小次郎の脳天を砕いていました。

その後、武蔵がとどめの一撃を加え、小次郎は絶命し、武蔵が勝ちました。

これが有名な「じらし戦術」を用いた武蔵の戦い方でした。

しかしこの有名な戦術を否定する説が最近唱えられています。

新説:「じらし戦法」の真実。

武蔵が亡くなった9年後、養子の宮本伊織が顕彰碑(小倉碑文)を建立します。

小倉碑文は巌流島の戦いを描いた一番古い資料と言われています。

そこにはこう記されています。

爰に兵術の達人、岩流と名のる有り。彼と雌雄を決せんことを求む。

岩流云く、真剣を以て雌雄を決せんことを請ふ。

武蔵対へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ。

吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。

長門と豊前との際、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。両雄、同時に相会す。

岩流、三尺の白刃を手にして来たり、命を顧みずして術を尽くす。

武蔵、木刃の一撃を以て之を殺す。電光も猶遅し。

故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ。

「岩流(巌流)」とは小次郎のこと。

そして「両雄、同時に相会す。」つまり武蔵と小次郎は巌流島で同時に会った。ということです。

この記録によると、武蔵は遅刻をしていませんでした。

ただし、結局勝ったのは武蔵です。

とどめの一撃の新説

定説によれば、小次郎はとどめの一撃を脇腹に受け、絶命したとされます。

「小倉碑文」の次に古いとされる「肥後沼田家記」という資料があります。

宮本武蔵玄信が豊前に来て二刀兵法の師になった。

この頃、すでに小次郎という者が岩流兵法の師をしていた。

門人の諍(いさか)いによって武蔵と小次郎が試合をする事になり、

双方弟子を連れてこないと定めた。

試合の結果、小次郎が敗れた。

小次郎の弟子は約束を守り一人も来ていなかったが、

武蔵の弟子は島に来ていて隠れていた。

その後、勝負に敗れ気絶した後蘇生した小次郎を武蔵の弟子達が皆で打ち殺した。
それを伝え聞いた小次郎の弟子達が島に渡り武蔵に復讐しようとした。

武蔵は門司まで遁走、城代の沼田延元を頼った。

沼田延元は武蔵を門司城に保護、その後鉄砲隊により警護し豊後に住む武蔵の親である無二の所まで無事に送り届けた。”

つまり武蔵は

「呼んではいけない弟子を巌流島に隠れさせていた」

→「勝負に勝ち、弟子たちが気絶した小次郎にとどめをさした。」

→「ばれるのを恐れて、武蔵逃げる。」

というわけですが、武蔵ずるい!と思いますよね。笑

しかし武蔵の弟子たちが小次郎を倒したのに、どうしてそのことがバレたのでしょうか?

弟子たちはわざわざ自分たちに都合の悪いことを言う必要はありませんので。

もしこれが事実だとしても、武蔵が小次郎と二人で勝負して勝った。

ということには変わりはありませんね。

どうして武蔵は小次郎に勝てたのか?

結局、巌流島で武蔵が勝ったのは「じらし戦術」ではなく、小次郎の有名な長い刀に対抗するため、武蔵が船の櫂(パドル)を削ってつくった木刀のおかげでした。

武蔵は試合当日の朝までこの木刀作りに専念しました。

小次郎の長い刀よりさらに長い木刀を用意して決闘に臨んだのです。

長い刀に対抗するとはいえ、急遽つくった木刀で真剣勝負に挑み、勝った武蔵はすごいですね。

間違いなく腕は一流だったのでしょう。

ちなみに、そして巌流島は小次郎がこの決闘の時の後に呼ばれるようになった名前です。

小次郎が自分の流派を「巌流(岩流)」と呼んでいたため「巌流島」と呼ばれました。

※今でも巌流島の正式名称は「船島」です。

なぜ「じらし戦法」が定説なの?真実は?

これは小説「宮本武蔵」(吉川英治著)の影響が大きいと言われています。

「宮本武蔵」には武蔵が遅れてやってくる、有名な描写があります。

小説がヒットしてドラマや映画化になり、そのイメージがそのまま歴史として伝えられるというのはよくあることですね。

そもそも、宮本武蔵み関する信憑性の高い史料はきわめて少ないのです。

佐々木小次郎の出生も年齢もはっきりと分かっていません。

決闘にしてもどちらから試合を申し込んだのか、何故試合をしなければならなかったのかなど、真実はよく分かっていません。

ただ、解っているのは武蔵が勝ったという結果のみなのです。

そして、試合に勝った武蔵が何故か、逃げるように船島を去っています。

資料が少ないからこそ、色々と想像が働きますね!

最後に

巌流島の新説について、いかがでしたでしょうか?

新説といっても、かなり古い資料に書いていましたね。(笑)

謎が多い人物たちなのでドラマや漫画になりやすいのでしょう。

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