【島守の塔】沖縄戦当時の知事「島田叡(あきら)」さんの足取りを追う

こんにちは。

皆さんは1945年に沖縄が戦場になったことを知っていますか?

県民の4人に1人が亡くなったこの悲惨な戦争。

沖縄戦当時、県知事だったのは島田叡(しまだあきら)さんという兵庫県出身の方でした。

危険極まりない沖縄に残り、最期まで県民のために尽力されました。

沖縄戦が始まり、島田知事が亡くなるまでどのような経緯を辿ったのか、まとめました。

年号はすべて昭和20年(1945年)です。

※日付は資料によってブレがあるため、確実とは言えません。ご了承ください。

管理人が、複数の資料から確度が高い日付を記載してみました。

沖縄戦直前

3/25

沖縄県庁、那覇から首里へ移動。
真和志村の繁多川の新壕(みーごー)にて、戦時行政を始める。

沖縄戦開始 4/1

4/25

シッポウヌシガマ:那覇市真地の「県庁壕」(警察部の壕)
に沖縄県庁島田知事移動
(ちなみに、新壕とシッポウヌシガマは400mぐらいの距離)

4/27

シッポウヌシガマで緊急沖縄南部市町村長会議が開かれ、戦闘への住民の協力や食料増産について話しあう。特に大きなテーマは以下の5つ。

①必勝信念及び敵愾心の高揚
②避難民の受け入れ
③壕の増強
④食料増産
⑤スパイ発見逮捕

①について
戦場行政として軍に協力するため、「後方指導挺身隊」を形成することが島田知事から提案された。
県庁職員は、米軍の攻撃の合間に、壕から出て、戦闘の後方にいる住民に対して「士気高揚」、つまり戦意を高めることを目的としたのが「後方指導挺身隊」。別名「士気高揚班」。

参考サイト様
https://www.web-gis.jp/GS_Okinawa-Gama/naha-X+03-sm.html

4/30

ヒトラー、自殺

5/25

島田知事、荒井警察部長、警察壕を出る。

5/27~28八重瀬町志多伯

壕が見つからず転々とする
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2176109&id=18862228
https://blog.goo.ne.jp/uehara-shonen/e/566b4d72d71c58bd472f1b19d33eedfe

5/29~6/3頃糸満市大城森

32連隊、北郷隊長の配慮により島田知事一行も壕に入る
https://simamori.ti-da.net/e1622200.html

6/7

島田知事が轟の壕に到着。

「後方指導挺身隊」「警察部警備中隊」等を解散。県庁業務を停止

6/15頃

日本軍が轟の壕に到着。島田知事に立ち退きを命じる
その後、軍司令部と知事の連絡先がやってきて、知事に摩文仁に移動するように伝える。

6/15夜

島田知事は摩文仁に移動する。

「山里(旧姓:伊波)和枝」さん。那覇市のデパートで働いていたが、戦争協力のため警察部へ社員が派遣されることになった。

「長官殿、どちらへですか?」
「僕たちはこれから軍の壕に行く。お前たち女、子どもに(米軍は)どうもしないから、最後は(友)軍と行動をともにするんじゃないぞ、最後は手をあげて出るんだぞ」と小声で言った。

6/18

島田知事、荒井警察部長を伴い摩文仁の守備軍司令部壕に入る

6/26

摩文仁の壕を出た後、消息を絶つ
島守の塔の壕が「終焉の地」として石碑が立っているが、消息は不明
http://www.ifsa.jp/index.php?Gshimadaakira
http://heiwa-irei-okinawa.jp/01ireitou/54shimamori/54shimamori.html

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