夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡
閑(しず)かさや 岩にしみ入る 蝉の聲(せみのこえ)
一度は聞いたことがある有名な句を残した松尾芭蕉。
45歳で「奥の細道」を歩き、多くの名歌を残しました。
しかし松尾芭蕉の正体は忍者であり、「奥の細道」の目的はスパイ活動だっという説について検証します。
Contents
・そもそも松尾芭蕉っていつ、どこで生まれた人?
芭蕉は寛永21年(1644)に赤坂農人町(現在の上野市赤坂町)に生まれた説と、柘植(つげ、現在の伊賀氏柘植)に生まれた説の2つがあります。これは松尾家が芭蕉が生まれた前後に柘植から赤坂へ引っ越しをしたため、どちらは分かっていません。
伊賀といえば、忍者ですね。甲賀と並び忍者の里として知られています。
芭蕉が23歳の時、当時仕えていた主君が亡くなり隠居してしまい、その後は俳句の道を歩んでいくことになります。
45歳で東北や北陸地方を旅します。
その後5年の歳月をかけて、『奥の細道』を書き上げましたが、出版されるのを待たずに51歳の生涯を閉じました。
辞世の句は、「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」でした。
・奥の細道って何?その目的は?
奥の細道とは、元禄2年(1689年)から芭蕉が弟子とともに行った、旅行の記録をまとめたものです。行った場所は江戸から始まり、現在の東北地方を中心に、遠くは滋賀県まで、最後は岐阜県大垣市を出発したところまで書かれています。
いわゆる紀行と呼ばれるもので、旅行の中に体験した内容を記した文章のことですね。
その道中で芭蕉は様々な俳句を詠み、下の俳句のような私たちもよく知っているものも含まれています。
・夏草や兵どもが夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと)
・閑さや岩にしみ入る蝉の声 (しずかさや いわにしみいる せみのこえ)
・五月雨をあつめて早し最上川 (さみだれを あつめてはやし もがみがわ)
奥の細道の目的は、彼が崇拝していた西行(さいぎょう、鎌倉時代の歌人)の500回忌に、西行たちにゆかりのある名所や旧跡を訪れるために行きました。
現代では定年退職した人が四国八十八か所や九州旅行に行く感覚だと思います。
では、なぜ俳句好きの芭蕉が奥の細道を書いたことで忍者と呼ばれるようになったのでしょうか?
忍者説の理由①おじいちゃんなのに移動距離&速度がすごい。
芭蕉が『奥の細道』で歩いた距離は、全長約2400km、日数にして150日にも及びます。
2400kmというと、東京⇔鹿児島の往復距離!に相当します。
しかも江戸を出発したのは芭蕉が四五歳のときで、当時としては老人の部類でした。
さらに彼は病弱だったので、死を覚悟した旅だったともいえるでしょう。
何と芭蕉は一日に50km歩いた日もあるといいます。
これは忍者として身体を鍛えていたから成せた旅人といえるのはないでしょうか。
・忍者説の理由②出身地が忍者の里:伊賀
最初に書いた通り、芭蕉は忍者の里:伊賀の出身でした。
まず、芭蕉の生家は「無足人」と言われる階級でした。
かつて、伊賀の人達は守護大名の支配には屈せず、あくまで独立を貫きます。
もともとの伝統の武芸である忍術の修練に励んでいましたが、やがて織田信長の二度にわたる伊賀討伐によって壊滅してしまいます。。
この時、多くの伊賀人が全国に離散して様々な大名に仕えます。伊賀忍者で一番有名な人は服部半蔵ですね。
しかし、多くの人は伊賀に留まりました。 彼らが無足人です。
土地は持っておらず、お米やお金の俸禄(ほうろく)だけ受け取る、下級の家臣のことです。
芭蕉=忍者説を裏付ける有力な根拠ですね。
・忍者説の理由③資金源、交通手形は?
江戸時代、全国を旅するには「お金」と「手形」の二つが絶対に必要でしたが、芭蕉については多くの疑問があるのです。
当時の旅は、現代以上にお金のかかるものでした。
芭蕉は23歳で隠居生活を始めましたが、決してお金が稼げるわけではありません。
またご先祖様は無足人なので、裕福だったとは言い難いです。
さらに、道中ではいたるところに幕府により設置された関所が設置されています。
関所を通るのには「手形」が必要でした。
江戸幕府が支配する世界では手形は手に入れるのも大変で、普通の人は旅というのはなかなかできないものでした。
芭蕉がこの二点の問題を難なく?クリアできた理由は、幕府が後ろにいる と考えればすべてが解決できます。
さらに実は芭蕉は、奥の細道以外にもいくつかの紀行文を残しています。
名古屋や関西を回った記録の『笈の小文(おいのこぶみ)』、
故郷である伊賀を旅した『野ざらし紀行』などがあります。
幕府が芭蕉に資金も手形も提供し、全国を旅させてスパイ活動をさせたと考えれば納得ですね。
おまけ:奥の細道の旅程詳細
奥の細道、その全長2400キロのルートを詳しく見てみましょう。
陰暦3月27日
見送りの人々と別れ門人の河合曾良(そら)を伴って江戸の千住を出発。
4月1日
日光山に参拝して、「あらたふと 青葉若葉の 日の光」の名句を詠みました。
日光から那須を通り、白河の関を越えて奥州路へ入ります。
5月5日
端午の節句を仙台で迎え、塩釜を通って松島へ。
5月12日
平泉に到着し、「夏草や 兵(つはもの)どもが 夢のあと」と詠み、藤原三代の栄華を偲びました。
5月27日
最上の山々を越え、に、立石寺で「閑(しず)かさや 岩にしみ入る 蝉の聲(せみのこえ)」の名句を残しました。
ちなみに、この蝉はニイニイゼミのことです。
松尾芭蕉が紀行文『おくのほそ道』の中で詠んだ山寺の句「閑さや岩にしみ入蝉の声」。この句に詠まれたセミは何ゼミだったのか、セミの種類についての論争がありました。
昭和2年に、歌人の齋藤茂吉(1882~1953)がアブラゼミと主張したのに対し、評論家にしてドイツ文学者の小宮豊隆(1884~1966)がニイニイゼミであると反論したものです。
その後、昭和5年8月初めの調査によって蝉を捕獲したところ、確認されるセミのほとんどはニイニイゼミで、アブラゼミはほんのわずかでした(因みに、芭蕉が山寺を訪れたのは新暦7月13日であるので、調査は時期遅れといえます。)。その結果を知った茂吉は、自説を撤回したのでした。出典:山寺芭蕉記念館 HPより
さらに、最上川を下り、月山などの出羽三山の秘境を訪ねます・
6月13日
酒田に着いて日本海へ出ました。
七夕の頃
日本海沿いを南下しながら、佐渡ヶ島に思いをはせ、「荒海や佐渡によこたふ 天の河」と詠みます。
ただし、本当は、佐渡ヶ島が見えるような夏の天気のいい日には、海が荒れることはないといいます。
その後、金沢を通って、山中温泉へ到着します。
ここに7月27日か8月5日まで滞在しました。
9月3日
病気になった曾良と別れ、芭蕉は永平寺、福井、敦賀と回って、門人たちが待つ大垣に到着しました。季節はすっかり秋に変わっています。
ここで奥の細道は終わりです。
最後に
芭蕉が奥の細道で「蕉風」と呼ばれる独自の境地に至ったのも、この道中のことでした。
その後芭蕉は俳聖と呼ばれましたが、芭蕉=俳聖=忍者 と考えてみるととても面白いですね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。