西郷隆盛の死因は被弾が原因だった!?持病から城山の最後まで

2018年の大河ドラマ「西郷どん」の主人公にもなった、鹿児島が誇る「西郷隆盛」。

我々が知っている西郷隆盛の体型は大きく、今でいうメタボな状態で、決して健康体ではありませんでした。

それが原因で晩年には不整脈等の症状が見られます。

またメタボ以外にも象皮病という珍しい病気にかかってしまいます。

この記事では西郷の生涯でかかった病気や、最後の死因をご紹介します。

遠島中にフィラリアに感染し、象皮病で陰嚢が腫れあがる

現代の私たちが想像するイメージ通り、西郷隆盛はかなりの巨漢でした。

身長は180センチで胸板も厚く逞ましく、少年時代から病気一つしたことがない健康優良児でした。

また恵まれた体力にくわえて剣術修行にも熱心だったといいます。

一方で、性格的には穏やかで年下からも慕われ、近隣の子供たちのリーダー的存在でした。

責任感も強かったようで、喧嘩があればすぐに間に入り仲裁したといいます。

薩摩藩の気風は荒々しく、子供同士の喧嘩でも刃物を持ち出すことは日常茶飯事で、仲裁は命懸けでした。

西郷はそのとばっちりを食って右腕を斬られ、筋が断裂して腕の曲げ伸ばしが不自由になり、刀を握れなくなっています。

そのため好きな剣術修行を諦めざるをえなくなってしまいますが、

西郷は腐ることなく、学問という新しい目標を見つけて書物を読みあさっていました。

小さい時から精神的にもタフで、もしケガをしていなかったら我々の知る西郷隆盛はいなかったかもしれません。

西郷はやがて藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)から気に入られ、なんと斉彬の側近に抜擢されて藩政にかかわるようになります。

西郷は下級武士の出身だったので、かなりの大出世です。

しかし、斉彬が急死し、失脚してしまいます。

西郷は奄美大島へ島流しにされ、さらに沖永良部島に遠島されるという過酷な運命に見舞われました。

そこで、この遠島時代にはフィラリアに感染してしまう二重の悲劇に見舞われます。

フィラリアは糸状虫上科に属する動物の総称です。

犬の心臓に寄生する犬糸状虫の他にさまざまな寄生虫が存在しますが、

人間に寄生するものとして有名なのがバンクロフト糸状虫というのがあります。

現代の日本ではこのヒト寄生型のフィラリアはほぼ根絶されていますが、未だにアフリカ、インド、東南アジアなどに多くの象皮病患者がいます。

そして江戸時代には日本にも蔓延し、重大視される感染症のひとつでした。

このバンクロフト糸状虫がリンパ管やリンパ節に寄生すると、皮下組織内で増殖して腫れあがります。そして表面が象の皮膚のように変形する象皮病(ぞうひびょう)を発症します。

象皮病の症状は足や腕、陰囊、外陰部、乳房などに現れます。

なんと、西郷の場合は陰嚢が大人の頭ほどの大きさに腫れあがったといいます。

頭が股にあると想像すると歩きにくそうですが、本当に西郷は大股で歩いていたようです。

もちろん馬に乗ることなどできません。

西郷は象皮病で肥大した陰嚢を気にして、維新後に外遊しなかったともいわれていますが、

確かになかなか夜遊びはできませんよね。

※興味本位で「象皮病 陰嚢」で検索してみましたが、なかなかショッキングな画像が乗っております。。確かにこれで夜遊びはもちろん、普通の生活も難しいと思いました。

もし検索される方は自己責任でお願いいたします。(笑)

明治政府で働き、デスクワークにより肥満体型へ

西郷は明治維新後は明治政府の役職につくことになります。

若い頃は戦場に出ては動き回り、それなりにスリムだったようですが、明治政府で働いてからはデスクワークが多くなります。

また基礎代謝も落ちていたのでしょう。どんどん肥満傾向になっていきました。

西郷は下戸でお酒は飲めませんでしたが、鰻や黒豚など脂の多い食物を好んで食べていました。

もともと鹿児島はそれらの食べ物が名物なので、出世してからさらに食べたのかもしれません。

若いうちは基礎代謝が高く、よく運動もしていたが、年を取ってからは基礎代謝も落ち、運動もしなくなったという、現代のサラリーマンにもよく見られる光景ですね。

高脂血症でコレステロール値も高かったはずで、血圧もやや高かったようです。

時々、体調不良を訴えることもあったといいますが、肥満や脂分の摂取過多が影響していたと考えられますね。

明治政府に就いてしばらくし、有名な征韓論で政府を辞めてからは郷里の鹿児島へ帰りました。

鹿児島では毎日のように犬を連れて野山を歩き、趣味の狩猟を楽しみます。

リラックスできる環境と適度な運動で、ストレスからは解放されたようで、健康は回復しつつありました。

このままの状態が続いていれば、肥満も解消し、長生きして大往生していたかもしれません。

しかし、時代は西郷を放っておきませんでした。

不平士族たちのリーダーに祭りあげられ、いつしか新政府と対立する状況になってしまいます。

西南戦争の激闘中に心不全の兆候。最後は被弾し、自害。

明治10 (1877)130日には不平士族たちが新政府の火薬庫を襲撃して、ついに西南戦争が勃発します。

西郷隆盛は反乱軍のリーダーとして担ぎ上げられました。

反乱軍は熊本城の奪取に失敗した後、しだいに追い詰められていきました。

戦闘は約8か月も続きますが、しだいに悪化する状況に西郷もストレスが溜まっていたようで、戦いの最中に再び体調不良に襲われます。

心不全や不整脈などの症状が現れ、軍を指揮するのもままなりません。

やがては鹿児島城下の城山に追い詰められて、西郷は「城山決死の檄」を出し決死の意を全軍に告知します。

9月24日午前4時、政府軍の総攻撃が始まります。

このとき西郷は進撃する途中、島津応吉久能邸門前にて政府軍の銃撃で股と腹に被弾してしまいます。

もはや助からぬと判断し、西郷は別府晋介(べっぷしんすけ)を見て「晋どん、晋どん、もう、ここでよか」と言い、襟を正し、はるか東方に拝礼しました。

別府は「ごめんなったもんし」と叫び、西郷を介錯し、自らも切腹します。

後日、西郷の遺骸は発見されますが、なぜ西郷だとわかったのでしょうか?

それは象皮病により陰嚢にできた腫瘍でした。

一方、西郷の首は折田正助邸門前に一旦埋められました。

戦闘終了後、首は発見されて政府軍の総指揮官・山縣有朋が検分します。

その後は身体とともに、南洲墓地に手厚く埋葬されました。

最後に

屈強なイメージがあり、病気とは無縁のように見えた西郷隆盛。

しかし幼い時から右手は負傷し、象皮病にかかり、大人になってからは肥満体型になるなど、調べてみると決して健康体とは言えなかったようです。

西郷は城山で部下に介錯を頼んで首を斬り落とさせ、絶命しますが、被弾をしなければどうなっていたかわかりません。

結局負けて切腹したのでは?と思いますが、もしかしたら政府軍に捕まって生け捕りに。。

と想像してしまいます。

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