「征韓論」といえば西郷隆盛の代名詞のようなイメージがあります。
大久保利通らが外遊しているときに留守政府の首脳になった西郷隆盛・板垣退助らは征韓論をとなえます。
しかし帰国した大久保利通らの強い反対にあって挫折し、西郷は政府を飛び出してしまいます。
これが一般的な西郷隆盛=征韓論の内容です。
しかし現実はかなり異なるものでした。
この記事ではそもそも征韓論とは何か?何が現実なのか?を明らかにします。
Contents
そもそも、征韓論とは?
「征韓論」とは、朝鮮半島に派兵して征服するという対朝鮮強硬論のことです。
なぜこの考えが生まれたのでしょうか?歴史を振り返ってみましょう。
江戸時代の日本と朝鮮半島の関係をおさらい
戦国時代の終わり、天下統一を果たした豊臣秀吉は朝鮮出兵を行い、日本と韓国の関係は悪化しました。
1603 (慶長8)年、征夷大将軍となった徳川家康は、朝鮮出兵によって国交が途絶えていた朝鮮との貿易を望みます。
対馬を領土としていた宗氏に交渉を指示して、1605(慶長10)年には国交を回復しました。
そして1607(慶長12)年以降、将軍の代替わりごとに朝鮮通信使を迎えるなど、日朝両国は約200年にわたって友好的な関係を維持してきました。
しかし1811 (文化8)年以降、両国の財政的な理由などによって朝鮮通信使が途絶えてしまいました。
そこで初めて「征韓論」という概念が、幕末に誕生しました。
なぜ友好的な関係があったのに、朝鮮半島を支配しようと考えられたのでしょうか?
それは一部の国学者が『日本書紀』『古事記』に記された 「三韓征伐」(古代の日本が新羅・百済・高句麗を支配したという説話)を歴史的事実と捉えたことがその発端です。
昔は日本が朝鮮半島を支配したのだから、現在も支配していいよね。という考えです。
さらに幕末から明治にかけて欧米列強からの外圧が激しさを増すなかで、再び朝鮮を支配して活路を見出そうという考え方が生まれたのです。
もし朝鮮半島が欧米列強に支配されると、次に支配されるのは日本なのです。
なので朝鮮半島を支配すれば、日本本島の防波堤にすることができるのですね。
こうして幕末に生まれた征韓論は、明治維新を成し遂げた新政府首脳に受け継がれていきました。
日朝関係史を専門とする奈良女子大学名誉教授・中塚明氏は、「戊辰戦争も終わらない1868年(明治1) 12月から翌春にかけて、(中略)早くも岩倉具視や木戸孝允ら政府首脳らによって朝鮮侵略が画策された」とみています。
その理由を「新政権成立後の士族の不満を外に向け、かつ朝鮮を侵略することによって、政治的、経済的、心理的な諸方面で、欧米諸国による圧迫の代償を得ようとした」(『日本大百科』小学館)と解説しています。
1869(明治2)年、明治政府は宗氏を通じて朝鮮政府に王政復古を通達し、日本との国交樹立を改めて求めました。
しかし、その国書には日本が朝鮮よりも上位にあることを示す「皇」 や「勅」などの字句が含まれていたため、朝鮮側は国書の受理を拒否します。
朝鮮を見下していた態度がばれてしまったのです。
そこで明治政府は翌年、宗氏を介さずに外交官2名を朝鮮に派遣しましたが、両者は首都に入ることも許されずに帰国します。
そのひとりである佐田白茅は朝鮮側のこうした姿勢に激怒し、「即刻、朝鮮を討伐すべし」と激烈な征韓論を訴えます。
「三十大隊を出兵すれば朝鮮を征服できる」と外務卿に訴えました。。
こうして征韓論が政府内で過熱する最中、西郷隆盛は郷里・鹿児島で藩政改革に尽力していました。
即時出兵に反対した西郷隆盛
1870 (明治3) 12月、明治政府は岩倉と大久保利通を鹿児島に派遣し、西郷に政界への復帰を要請します。
旧大名と士族たちの反発が予想される廃藩置県を控えた政府は、士族たちの信望が厚い西郷の存在を必要としていました。
維新後、西郷は高給を貪る政府高官に嫌気が差し、士族をないがしろにする政策に失望して帰郷していました。しかし、この時「政府を一洗する」との思いで岩倉らの要請を受諾します。
翌年1月に上京すると、6月には参議として正式に政界へ復帰し、7月14日の廃藩置県を成功に導きました。
廃藩置県という大変革を終えた政府首脳は、1871(明治4) 11月、江戸幕府が諸外国と結んだ不平等条約の改正を目指し、欧米12カ国を歴訪する旅に出てました。
特命全権大使の岩倉以下、大久保、木戸、伊藤博文といった政府中枢が、西郷に後事を託すかのように旅立ってしまったのです。
1873(明治6)年5月、西郷を中心とする通称「留守政府」を揺るがす外交問題が浮上しました。
朝鮮の釜山に設置されていた倭館(在朝鮮日本事務所)前に、「日本は無法国家であるから、密貿易を行う日本人商人を厳罰に処す」との立て札が掲げられ、倭館は食糧の購入さえも拒まれているという情報が入ったのです。
6月12日、朝鮮問題に対する閣議が開催されました。
この冒頭で「居留民を守るためにただちに出兵するか、全員を引き揚げさせるか」という外務省案が提示されると、参議の板垣退助は「居留民を保護するのは政府として当然である。一大隊を釜山に派遣し、その後、修好条約の談判にかかるべきである」と主張し、議論は即時出兵に傾きかけました。
遣韓論(けんかんろん)を主著した西郷
しかしこの時、首を振ったのが西郷でした。
西郷は、「居留民を守るためとはいえ、出兵すれば侵略行為だと受け取られる。軍隊を出すのは控え、位の高い全権大使を派遣すべきである」と訴えました。
さらに、これを聞いた太政大臣・三条実美が「全権大使は軍艦に乗り兵を伴って向かうのがいいだろう」と述べると、西郷は「兵は伴わず、古式にのっとった烏帽子・直垂を着けた正装で、礼を厚く、威儀を正して行くべきです」と回答します。
あくまでも冷静に、無駄な争いを好んでいなかったことが分かります。
その危険な大使役を、自ら買って出たのです。
つまり西郷の主張は征韓論ではなく、「遣韓大使派遣論、すなわち「遣韓論」でした。
西郷による遣韓論は議論の末、板垣、後藤象二郎、江藤新平に加え、清国に外遊していた外務卿・副島種臣らの賛同を得て8月に内結されたが、重大案件であるために外遊中の岩倉の帰国を待って決定されることとなりました。
実は、大久保は5月、木戸は7月にすでに帰国していましたが、両者とも閣議に出席しませんでした。
これといった成果を挙げられずに帰国した使節団一行は、学制改革、地租改正、兵令といった改革を成し遂げていた留守政府の中に居場所を見つけられなかったのですね。
この当時、「条約は 結び損ない 金は捨て 世間へ大使 何と岩倉」との狂歌が流行しました。
大金をかけながら条約改正に失敗した岩倉は、世間に何と言い訳をするのか、という意味です。
帰国直後、大久保は知人に宛てた手紙に、「帰朝はしたものの、微力でとても重圧には耐えがたく、なすすべもない」と記していました。
「反官僚派」対「官僚派」による権力闘争
そんななか、9月に帰国した岩倉は大久保を参議に復帰させ、病気を理由に引きこもったままの木戸との連携を図りつつ、西郷の遣韓論に断固反対の立場を取りました。
その理由は、海外情勢を目の当たりにした彼らは内治の整備を優先すべきだと考えたとされています。
元京都大学名誉教授の井上清氏は次のような見解を述べています。
「征韓論は対朝鮮政策に主眼があったのではなく、日本国内の権力をだれが握るか、西郷ら反官僚派が握るか、それとも岩倉、木戸、大久保ら官僚派が握るかの権力闘争だったのである」(『日本の歴史20明治維新』中公文庫)”
この当時、長州出身者を中心とする「官僚派」は、金権体質からの脱却を目指す「非官僚派」に追い詰められていました。
1872(明治5)年には、大蔵大輔(次官)の地位にあった長州出身の井上馨が、盛岡藩が所有していた尾去沢(おさりざわ)鉱山を私物化しようとしたとする「尾去沢鉱山事件」が発覚します。
これを、1871年に 創設された司法省のトップ「司法卿」に就任した江藤が厳しく追及し、井 上は辞職に追い込まれました。
さらに江藤は1872年、同じく長州出身の陸軍大輔、山縣有朋が、同郷の御用商人である山城屋和助に65万円(陸軍省年間予算の約12分の1に相当)もの公費を不正に貸し付けていた「山城屋事件」を徹底的に糾弾しました。
同事件は、金を返せなくなった山城屋が、証拠書類をすべて焼却した後、陸軍省で割腹自殺したために立件されなかったが、山縣は1873年4 月、江藤の執拗な追及によって引責辞任を余儀なくされています。
こうしたなか、非官僚派が決定した遣韓論が実行されれば、政治の主導権は彼らに握られてしまう……との考えが、官僚派の面々にあったのではないかと見られているのです。
そして、1873年10月14、15日の両日、西郷の遣韓論をめぐる閣議が開かれました。
この席では、大久保が主張する強硬な反対論によって議会は紛糾します。
結論には至らず、後日、両派の板挟みとなった三条が寝込んでしまうと、太政大臣代行となった岩倉が天皇に反対意見を上奏したことで、大使派遣の中止が決定的となりました。
本質を議論するのではなく、自分たちのメンツを守るために争うのはいつの時代も変わりません。
西郷はここに至り、23日に辞表を提出して帰郷します。
翌日には江藤、板垣、後藤、副島などが政府を去りました。
この「明治六年の政変」によって、政治の主導権は再び岩倉、木戸、大久保らの手に戻り江藤は1874(明治7)年の不平士族による反乱「佐賀の乱」の首謀者として刑死されます。
西郷もまた、1877(明治10 )年の「西南戦争」に敗れ、自刃したのでした。