聖徳太子とは実在した人物なのか?本名や別名は?

旧一万円札の肖像画だった聖徳太子。昔は偉人として扱われていましたが、今や教科書からも「聖徳太子」の名前が消されようとしています。

そもそも、聖徳太子という人物は実在したのか?

本名はあるのか?などの疑問に答えていこうと思います。

別名:豊聡耳命(とよとみみ)の由来

聖徳太子には、「豊聡耳命(とよとみみ)」という別称があります。
これは「10人の話を聞き分けた」という有名な逸話が由来です。
皆さんも聞いたことがあるかと思います。
例えばCDを10枚同時に再生した場合を想像してみてください。
全てをきちんと聞き分けることなんて、まず無理ですね。
じつはこの逸話には、「同時ではなく、大勢の訴えを順番に聞いたうえで、それらを忘れることがない記憶力をもっており、的確な処理をしていった」という解釈があります。
確かに考えてみると、10人が同時に話し出したところで、「1人ずつお願い」と返すの普通です。
逆に話す方も他の人が話している最中に話しかけるのは流石に失礼と感じ、遠慮したでしょう。
ですので、こっちの解釈のほうが理にかなっています。

本名:厩戸王(うまやとおう)の由来

この名は聖徳太子が生まれたときの話に由来します。
ある日、聖徳太子の母は、救世観音菩薩(ぐぜかんのんぼさつ)と出会い
「お腹を借りたい」といわれて口のなかに入り込まれる ……という夢を見ました。
やがて母は厩(うまや。馬小屋の意味)の前で産気づき、その場で聖徳太子を出産しました。
このことから聖徳太子は「厩戸王(うまやとおう)」と名付けられることになりました。
馬小屋で生まれた王様、という意味ですね。
そしてなんと、生まれたときにはもう言葉をしゃべります。
かわいくない赤ちゃんですね(笑)。
2歳で東方に向かって念仏を唱えました。
5歳の頃には1日で数千字の文字を覚えます。
6歳になるとお経を読み始めたといわれています。
知っている人は気付いたかもしれませんが、厩の近くで生まれたエピソードは
イエス・キリストに、生まれたそのときから言葉をしゃべったエピソードは釈迦に似ていますね。
じつはこれらの超人的エピソードは、のちの人々が聖徳太子に箔を付けるために創作したものとされています。
このせいで「聖徳太子なんて人物、存在しないんだ!」という主張も出てきましたが、確かに存在したというのが今の定説です。

聖徳太子はいなかった。

存在を藤原不比等にねつ造された疑惑

実は聖徳太子の実在を示す歴史書は聖徳太子の没後100年余り後に編纂された『日本書紀』まで登場しません。

同時代の中国の歴史書「隋書」には、冠位十二階と遣隋使以外については一行たりとも触れられていません。

では、聖徳太子という人物を捏造したのは『日本書紀』編纂当時の実力者であった藤原不比等だといわれています。

不比等は聖徳太子という人物の偉業と、太子の没後一族が蘇我氏が滅ぼされたという歴史にねつ造することで、自らの父である中臣鎌足らが蘇我氏を滅ぼした宮中クーデター「大化の改新」の正当性を流布することを目論んでいたという説もあります。

実は聖徳太子=蘇我入鹿だった説

なぜこの説が取り上げられるかというと、「大化の改新」という事件があったためです。

聖徳太子の死後、蘇我入鹿が天皇家をないがしろにして専横を繰り広げ、あまつさえ太子の子であり皇位継承者であつた山背大兄王ら一族を殺戮してしまいました。

そのため、中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足によって入鹿は暗殺、蘇我氏は滅ぼされます。

その後、中大兄皇子は、公地公民制などの行政改革を行ったとされています。

しかし、次期天皇となれたはずの中大兄皇子がなぜ、みずからの手を汚してまで、このような事件を起こしたのでしょうか。

この疑問に答えるには、日本書紀の成り立ちを考察しなければいけません。

各種の資料、伝承をもとに当時の政治状況をひもとくと、入鹿の祖父、蘇我馬子は、野蛮だっ た日本を国際的に通用する文明国にした有能な政治家であり、入鹿は、学識ある聡明な人物であったといいます。

先の「日出る~」の一文は、当時日本の実権を握っていた馬子の手によるものだと考えられています。そのような蘇我氏はついに天皇をさしおき、自らを天子と名乗ってしまいます。

この蘇我氏の権勢に抵抗し、クーデターを起こして天皇のもとに実権を取り戻した中大兄皇子らは、自らの行いを正当化しなければいけません。

そこで、中国にならって国史を編纂しようとした藤原鎌足の息子、不比等が日本書紀を書かせたときに、蘇我氏を悪くののしり、その功績を「聖徳太子」というシンボルに集約してしまうのです。

では、日本書紀やその他の史書に登場する「聖徳太子」は誰のことでしょうか?

それは、殺された蘇我入鹿のことです。

藤原氏は天智天皇のもとに強大な権力を握るが壬申の乱など数々の不幸に見舞われます。

鎌足の息子である不比等も同様であり、不比等は父の鎌足が蘇我一族を滅亡させたことによる怨霊のたたりがなせるものと考えました。

怨霊の災いから逃れるには、何らかの形で、蘇我氏の功績を絶賛し、彼らの魂を慰めなければなりません。

だが、そうすれば、蘇我氏を滅ぼした父・ 鎌足と中大兄皇子が悪玉になってしまいます。

そこで、蘇我氏を悪玉と善玉に分割し、善玉の中に、蘇我氏全体を象徴する架空の人物を入れ、その人を神として崇め奉ることにしました。

そうすれば、一方で藤原氏の面子をたてながら、他方で蘇我氏の供養をすることができると考えました。蘇我入鹿は不比等によってつけられた蔑称であり、本名は「善徳」といった。これをもじって作られた偶像が「聖徳太子」、という説もありますが、なかなか信憑性が高いですね。

記録が語る、確かに実在した聖徳太子

ここまで実在を疑うことを書きました。
しかし実は確かに聖徳太子が実在した記録が残っております。
有名な逸話とともに紹介したいと思います。

「日出づる処の天子」で、隋の皇帝を怒らせる

聖徳太子が18歳のときの592年、叔母が天皇の座に就きました。
それが推古天皇です。そして聖徳太子は天皇に代わり政治を行なう摂政の地位に就きます。
ここに蘇我馬子も加わり、3人で政治改革を進めていくことになります。
馬子も推古天皇の叔父にあたるので、3人とも血のつながりがある親族経営みたいなものですね。
推古天皇のもとで、聖徳太子はいくつもの偉業を成し遂げました。
その一つが遣隋使の派遣です。遣隋使の1団にいた小野妹子に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」 と書いた手紙をもたせて、隋の皇帝を激怒させた話は有名ですね。 当時の隋は、日本よりずっと大きな国でした。
それなのに聖徳太子は日本を「日の出る国」、隋を「日の落ちる国」と表現しました。
そりゃ怒るに決まってます。また、隋の皇帝にとって、小国の日本が「天子」という言葉を使っているのも気に入りませんでした。
天子とは皇帝という意味で、皇帝が存在するのは世界に隋だけと考えていたのです。
聖徳太子は「今後、隋とは対等な関係でいきますよ」という意味を込めて、あえてこういった手紙を書いたといわれています。それにしても随分とけんかを売るような文章にしましたね。(笑)
余談ですが、妹子はこのとき、隋の皇帝から返書を受け取っています。
しかしそれは、聖徳太子の手に渡ることはありませんでした。
妹子はこう言いました。「日本に帰ってくる途中で、なくしちゃいました!(テヘペロ)」。これには、ブチ切れた隋の皇帝の返書がとても見せられるものではなかったので、こっそり処分したという説があります。
この罪で妹子は流罪になるが、すぐに許されて、また遣隋使として隋に渡っています。
周囲も妹子がわざとやったと知っていましたが、体裁のためにやったのでしょう。

能力も血筋もバッチリなのに、天皇にならなかった

603年(推古天皇11年)、聖徳太子は冠位十二階を制定しました。
これは、生まれや家柄に関係なく、実力のある者を役人として登用するという制度です。
能力に応じて12の位に分け、わかりやすいように冠の色で位を区別しました。
604年(推古天皇12年)には、十七条憲法を制定します。
憲法とはいっても、役人が守らなければならない決まりや心得を定めたものでした。
叔母の推古天皇のそばで数々の実績を積んだ聖徳太子は、実は用明天皇の息子でもありました。
しかし彼は最後まで天皇の座に就いていません。
推古天皇には息子がいたので、そちらを優先したという説や、政界を牛耳る蘇我馬子にとって都合よく動く人物ではなかったから忌避されたという説もあります。
あるいは聖徳太子自身が天皇の立場に興味がなく、より自由に動きやすい摂政という地位にこだわったのかもしれません。
いずれにせよ真相は不明で 聖徳太子の謎の一つとなっています。

超人が愛した名馬-黒駒(くろこま)は、空さえも飛んでしまう

当時の役人たちの多くは、政治の中心地である飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に住んでいたが、聖徳太子はそこから20キロも離れた斑鳩(生駒郡斑鳩町)に住んでいた。
その理由はよくわかっていないが、とにかく聖徳太子は「黒駒」と名付けた愛馬に乗って毎日飛鳥まで通っていたらしい。
現在、その道は「太子道」と呼ばれており、観光名所となっています。奈良県の観光ウェブサイトにも載っているので、お近くの方は足を運んでみてください。
この黒駒にも面白い伝説が残っています。
ある日、聖徳太子が黒駒にまたがると、いきなり空へと舞い上がり、富士山の上まで飛んで行ったというのです。
そして北陸地方を経由して、3日後に戻ってきたらしい。ものすごい話だが、このおかげで聖徳太子が仕事を休むことになっていたら、どう説明するつもりだったのでしょうか。。
まさか「馬が勝手に飛んだの で」なんていえるはずもないし……。
黒駒は聖徳太子が亡くなったとき、両目から血の涙を流して一緒に死んだともいわれています。おたがいの絆を感じられるエピソードですね。

最後に

いかがでしょうか。聖徳太子の別名や実在したエピソードを紹介しました。

いずれにせよ謎多き人物。また新しい発見によって定説が覆されるかもしれません。

スポンサーリンク
336×280




336×280




シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク
336×280