種子島の鉄砲(火縄銃)の当時の値段は?ポルトガル人から買った?

1543年に種子島に伝わったとされる、火縄銃。

ポルトガル人が持っていた火縄銃ですが、値段はいくらっだのでしょうか。

また、日本で誰が初めに買い取ったのでしょうか。

火縄銃は種子島の島主、種子島さんが購入した

1543 (天文1)年にポルトガル人を乗せた中国人倭寇の船が、九州南方の種子島に漂着しました。これが日本にきた最初のヨーロッパ人でした。

島主の種子島時尭(たねがしまときたか)は、彼らのもっていた鉄砲を買い求め、家臣にその使用法と製造法を学ばせました。

日本で最初に火縄銃を購入したのが、種子島さんなのです。

40年後の1606 (慶長11 )年、薩摩藩初代藩主·島津忠恒(ただつね )の家老を務めた種子島久時(ひさとき)が編纂を命じた『鉄炮記(てっぽうき)』という書物が完成しました。

その書物には、およそ次のように記されています。

「1543(天文12)年8月25日、100人余りの外国人の乗った大きな船が、種子島南端にある西村の小さな浦(鹿児島県熊毛郡南種子町)に漂着した。

言葉が通じなかったため、その船がどこから来たのか初めはわからなかったが、五峰という儒生(儒学を修めた者)と西村織部(おりべ)という人物が筆談をすることで、交流が始まった。

船の乗員には3人のポルトガル人がおり、そのうちの牟良叔舎(フランシスコ)と喜利志多佗孟太(キリシタダモッタ)という者が鉄砲を所持しており、弾を発射する様子を実演して見せた。

これを見た領主の種子島恵時(しげとき)と時尭(ときたか)の父子は、これを買い取り、鍛冶職人に命じて、国産銃の製造にあたらせた」

火縄銃の値段は6000万円!

この時、種子島親子が、初めて目にした最新兵器を手に入れるために払った代金は、2挺で金2000両でした。

この頃、金1両で16.5gだったので、2000両だと約1億2000万円、つまり1挺6000万円という途方もない金額でした。

当時の種子島家には金2000両を供出するだけの経済力はなかったとの反対意見もあるようですが、この『鉄炮記』の記述が根拠となり、「1543 (天文12 )年、種子島に漂着したポルトガル人によって、鉄砲がはじめて日本に伝えられた」という通説が生まれたのでした。

火縄銃の国産化に成功した種子島時堯

種子島時堯は刀鍛冶の八板清定に命じて、その模倣品を製作させましたが、当時の日本人は、ネジの原理を知らず清定はボルトとナットの原理を理解するのに苦労したというエピソードが残っています。

種子島にもたらされた鉄砲の製造法は、津田監物(けんもつ)という人物によって紀州の根来(ねごろ)(和歌山県岩出市)に伝わり量産されました。

その後、和泉国の堺(大阪府堺市)、近江国の国友(滋賀県長浜市国友町)、日野(滋賀県蒲生郡日野町)などでも鉄砲の生産が進められ、戦国武将たちに買い占められました。

時は戦国、技術は日に日に上がり、大量生産できるようになって、値段は下落していきました。織田信長が活躍する頃になると、国産火縄銃1丁の値段は現在の価格で約50万円ほどでした。

ただし、鉄砲はあっても弾丸がなければ、ただの鉄の棒です。しかし、弾丸の原料となる鉛と 塩硝(えんしょう)は日本では取れず、海外から輸入しなければなりませんでした。

そのため、鉄砲自体の値段は安くなっても、弾丸の値段はかなり高くつきました。

さらに、鉄砲隊を組織するには、普段から訓練しておく必要もありましたし、鉄砲や弾丸を運 ぶ馬や人手も必要です。

ひと言に「信長は鉄砲隊を組織した」といわれますが、それを支えるには、相当なコストがか かっていたのですね。

誰にもできることではなかったから、信長は天下統一の寸前まで、戦国の世を勝ち進んだのです。

織田信長、豊臣秀吉の統一事業にも多大な影響を与えた鉄砲は、秀吉による1592(文禄元)年の「文禄の役」、1597(慶長2)年の「慶長の役」においても、朝鮮・明の連合軍を大いに苦しめたといわれています。

戦国時代末期の日本国内に存在した鉄砲の総数は50万挺以上ともいわれ、日本は伝来からわずか半世紀あまりで、世界最大の鉄砲保有国になったのです。

一方、そんな時代にも、鉄砲に無関心な戦国大名もいました。

薩摩の島津氏はその代表で、装備に関して大きな遅れをとることになりました。

火縄銃は雨に弱く、時間がかかるなど、鉄砲の欠点ばかりに目がいったといわれていますが、その一方で莫大な出費を惜しみ、鉄砲に手を出さなかったともいわれています。

火縄銃を種子島さんが国産化に成功したのに、その藩主である島津氏が無関心だったのはとても面白いですね。

火縄銃が初めて伝わったのは種子島ではなかった?

実は最近、「鉄砲=種子島初伝来」という、これまでの通説に異を唱える意見に注目が集まっています。

そもそも鉄砲伝来に関する史料は、『鉄炮記』以外は皆無に近かったため、同書を根拠とするしかなかったためです。

しかし、同書が伝来とされる年から60年以上も経った1606年に完成していることや、 同書を書かせた人物が種子島家16代当主の久時なのです。

先祖にあたる恵時(13代)と時尭(14代)の功績を、「鉄炮は伝来するとただちに戦いに投入され、旧来の戦闘技術を一変させ、城郭様式にも大きな影響をおよぼした」などと大げさに讃える意図が散見されるなど、記述に対して疑問があるのです。

種子島にポルトガル人が来たのは事実

種子島にポルトガル人が漂着したことは、アントニオ・ガルヴァンというポルトガル人が記した『諸国新旧発見記』(1563年刊)のなかに、「1542年にアントニオ・ダ・モッタ、フランシスコ・ゼイモト、アントニオ・ペイショットの3人がシャム(現在のタイ王国)から脱走してリャンポー(双嶼=中国浙江省寧波(ねいは)の沖合いの島にあった密貿易港)へ向かう途中嵐に遭い、日本に漂着した」という記述があります。

彼らが漂着した場所が種子島であったことは、別資料-イエズス会のポルトガル人宣教師ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』によっても裏付けられています。

こうしたことからも、種子島に漂着したポルトガル人が、領主である種子島父子に鉄砲を売ったことは事実だと考えられます。

しかし問題は日本人が初めて鉄砲を目にしたのが、その時だったのかという点ですね。

実は種子島以前に火縄銃が伝わっていた可能性があるのです。

『諸国新旧発見記』の記述で「リャンポーへ向かう途中」とあるように、種子島に漂着したのは、リャンポーを拠点に活動していた中国人倭寇のジャンク船であり、乗っていた3人のポルトガル人も商人であった可能性が高いのです。

本項冒頭の教科書にも登場する「中国人倭寇」とは、室町幕府が明との間で行っていた勘合貿易が日本側の問題で1523(大永3)年に途絶した後、中国人を中心とした密貿易者たちによって活発化した「後期倭寇」と呼ばれるものです。

倭寇とはいっても、略奪行為ではなく密貿易を主な生業としていた彼らは、九州の博多商人らとも頻繁に取引を行っていました。

彼らが取り扱ったのは、主に東南アジアの国々で仕入れた商品であり、そのなかには15世紀前半にヨーロッパで発明された鉄砲(火縄銃)も含まれていました。

国立歴史民俗博物館名誉教授で日本鉄砲史の第一人者である宇田川武久氏は、種子島父子がポルトガル人から買ったとされる鉄砲はヨーロッパで製造されたものではない。東南アジアで改良を施されたものであった可能性が高く、種子島(1543年)以前にも倭寇によって日本に伝来していたという説を発表しています。

つまり鉄砲は種子島だけではなく、九州や関西地方に伝来したとして、

「これまで唯一のように思われてきた種子島への鉄砲伝来は、数多くあったひとつの事例にすぎないのである」(『真説 鉄砲伝来』平凡社)

と結論付けています。

さいごに

いかがでしたか?火縄銃の値段から伝来の新説まで紹介しました。

値段は高くても実用化にこぎつけた織田信長の決断力と実行力は素晴らしいものがありますね。

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