将軍徳川綱吉が生類憐みの令で特に保護した動物は?実は悪法ではなかった?

「生類憐れみの令」といえば、一種の「動物愛護法」のイメージが強いですよね。

現代ではこの法の行き過ぎた動物愛護精神により、犬を傷つけてはいけない、ご飯は人間より犬にあげちゃう、といった庶民は大変な苦労を強いられたという見解が広まっており、稀代の悪法としても有名です。

そのため徳川綱吉は「犬公方」「お犬様」と呼ばれ、「犬バカ将軍」の印象が強くなっています。

でも実は、この法令は殺生が当たり前だった戦国時代の価値観を、平和な江戸時代の民のため、将軍が覆そうとしたために生まれたものなのです。

この記事では「生類憐れみの令」ができた背景や、実は悪法ではなかったという考えを紹介します。

生類憐れみの令とは?動物だけでなく、捨て子も適用?

この法令は、簡単にいうと生類殺生禁止令のことです。

生き物は殺してはいけませんよ。大切にしましょうね。ということです。

「生き物」とは動物だけでなく、弱い立場の人、捨て子や病人も含まれ、なんと小さな虫にまで適用されました。

どの将軍が、何年に制定したの?

この法令は徳川幕府五代将軍「徳川綱吉」(1646〜1709)によって作られました。

時期としては貞享2 (1685)年ごろから回を重ねて発布されました。

一度に出された法令ではなく、およそ二十二年にわたって出された数々の法令に対する総称なのです。

悪法と呼ばれる原因=大規模な犬小屋

悪名の主な要因となったのは大規模な犬小屋でした。

四ツ谷·大久保·中野の犬小屋は実在しています。

特に中野では住民を強制退去させて16万坪(東京ドーム11.3個分!)もの広大な敷地に犬小屋を建てました。

この小屋には八万二千匹の野犬が収容されたとされています。

犬一匹あたりに米3合、干しイワシ、味噌などを与えていました。

米だけだと現代の大人より食べていますよね。

その餌代や修復費は全て江戸町人や周辺農村から徴収され、経済的な損失を与えたのも事実です。

特に保護した動物は犬ですが、その理由として彼自身が戌年生まれだったためというのが有名です(諸説あり)。

またこの時には元禄の大飢饉が発生し、東北で5万人もの死者を出したと言われています。

そんな飢饉の飢えを凌ぐための獣を狩ることもできず、さらに米は犬に与えていたのですから「天下の悪法」と呼ぶにはふさわしいと言えるでしょう。

なぜこの悪法は作られたのか?

当時の江戸の時代背景を考えてみましょう。

徳川家康が天下統一を果たしてから時が経ち、形の上では確かに平和で秩序だった世になっていました。

しかし依然として戦国時代の武力に頼る価値観というのは根強く残っていました。

そうした者の中からは無法者が現れ、治安を悪化させていました。

幕府が開かれてから三十年あまりが過ぎていた寛永17 (1640)年 には、若き徳川(水戸)光圀が、町内で辻斬を行っていた記録も残っています。

ドラマ「水戸黄門」では助さん格さんを連れ「この紋所が目に入らぬか〜!」と言って世の中を平和にする活動をしていました。

しかし若かりし頃は「御免」と言いながら通行人を突然切りつけ、刀の切れ味を確かめていたのです。

あまりにも平和時の価値観とは思えませんよね。

つまり綱吉が将軍になった1680年の江戸時代の初期でも、形式上は天下泰平の世となってはいましたが、人々の感覚はまだ戦国のままだったのです。

生類憐れみの令はこうした社会情勢の中で発令された法案でした。

この法令は犬に限らず、小さな虫に至るまでの虐待や殺生を禁じたものです。

そしてこの「生類」には動物だけではなく、捨て子や病人、行き倒れ人など、社会的弱者も含まれていました。

当時はまだ、貧しさ故に病人や怪我人を追い出すという行為が平然と行われていたのです。

江戸時代といえば弱い人も強い人も、みんなが助け合って生活していたイメージはありますが、差別意識は強かったようです。

現代のほうが本当に国民みんなが平等です。

生類憐れみの令には「犬ばかりにかきらず、総じて生類人々慈悲の心を元といたし、あわれみ候儀、肝要に候事」という一節がつづられています。

これは綱吉が、「人々が広く生きるものに対して、深い慈悲の心を持ってください。

そしてそれを行動に移してください。」と望んでいたことを表しています。

つまり綱吉は、「おれ、戌年だしー、犬が大好きだからー、動物たちを傷つけてはいけないよ!(てへぺろ)」という理由で作られたわけではないのです。

言われるほど悪法ではなく、仏教的な思想で作られた。

つまり「生類憐れみの令」というのは、仏教の思想に基づくものでした。

幕府の権力を使いながらも「慈愛」の精神に満ちた政策であったことが確認できます。

近年ではこの生類憐れみの令がなければ、捨て子や姥捨て山といった悪習は後年まで残っていたとも言われています。

綱吉はこの法令を通じて、殺伐とした戦国の気風を絶ち、仏教的な「道徳」の精神を広く世に広めようとしたのです。

綱吉は将軍の就任直後に「武家諸法度」の「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき」という項目を「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき」と改めています。

このことからも綱吉が武士に対して「弓馬」よりも「忠孝·礼儀」を求めていること、武力よりも秩序を重んじる社会へ変革を試みていたことがわかります。

そして「生類憐れみの令」の同時期には、服喪や忌引に関する「服忌法」 なども発令していました。

綱吉はこうした政策をもって、戦国時代の人を斬る価値観を徐々に覆していったと言われています。

また綱吉は寺社の造営や再建も力を入れて行いました。

『忠臣蔵』で浅野内匠頭に切腹を命じたのも、綱吉がこうした武力や刃傷沙汰に訴える行為を忌み嫌っていたことが原因なのですね。

切腹を命じたことにより、綱吉の評判はさらに悪くなってしまいますが。。

終わりに

いかがでしたでしょうか?悪名高い「生類憐みの令」。

実は徳川綱吉が戦国時代の殺生の価値観を覆すために、平和な仏教の考えを広げようとして制定されたのです。

ただし、何事にもやりすぎは厳禁ですね。

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