徳川慶喜の最後はどうだったのか?お墓が谷中にある理由とは?

徳川慶喜は260余年にわたって続いた江戸幕府の最後の将軍(15代)となりました。

徳川家康の再来、英名とも呼ばれ、波乱万丈の人生を歩みます。

最後は肺炎で衰弱死しますが、歴代徳川家でも最年長で、大往生でした。

彼の人生と、その最期を見ていきましょう。

王政復古の大号令で政権を朝廷に譲る

1867(慶応3)年10月14日、大政奉還の上表を朝廷に提出したのち、王政復古の大号令によって将軍の座から引きました。

この大政奉還によって政権を朝廷に返しましたが、慶喜はしたたかでした。

大政奉還が起きるとどうなるでしょうか?朝廷は長年政治にタッチしていなかったため、「日本の政治は日本中の代表者たちが話し合って決めよう」という流れになるのです。

つまり慶喜の真の狙いは、その話し合いで自分がリーダーになり、徳川家を再興することだったのです。
実際、朝廷は混乱した状況を打開することができませんでした。

そして、朝廷内には一時、徳川家寄りの勢力が増大していきました。

しかし、翌1868年1月(慶応3年12月)、朝廷は「王政復古の大号令」を宣言します。

これにより「江戸幕府は廃止」「新政府を樹立」を明言することで将軍の座を追わました。

その後慶喜は二条城、大坂城、江戸城を転々としたあと、薩長が起こした戊辰戦争によって、守旧派を粉砕します。

さらに、勝海舟と西郷隆盛の会談で、江戸城が無血開城されることが決定し、慶喜はついに江戸城を明け渡さなければならなくなりました。

このとき、慶喜はすでに江戸城を出て東京上野の寛永寺で謹慎中でした。

それから、水戸の弘道館に移ったのち、同年5月、慶喜は徳川家を継いだ家達の後見人・松平確堂から駿府(現・静岡県)への移転を求められます。
これが新政府によって認められたことから、7月23日より同地で生活することとなりました。

翌1869年(明治2)9月に謹慎が解除されますが、なんと30年間も静岡で暮らしていました。

ここでの毎日は、もっぱら政治にかかわることを避け、趣味に明け暮れる生活を送っておりました。

慶喜は好奇心が旺盛で趣味の多い人でした。
子供の頃から武士の素養として学んでいた弓、能楽、馬術、日本画が得意でしたし、静岡に移ってから写真と狩猟、鷹狩も始めています。

さらに、謡曲、囲碁、読書も好きで『孫子」と「資治通鑑(しじつがん)』が愛読書でした。
駿府城公園の濠では、ウナギ釣りまでしていたといいます。
食べ物も、さすがに元将軍らしく、好物は富士見軒の西洋料理に永坂の更科蕎麦、「ハヤマ」のふき豆で、お菓子は、風月堂の特製品でした。

また、静岡で水揚げされる魚も好きで、刺身はマグロか白身、煮つけはカレイがお気に入りだったといいます。

味噌汁に砂糖を入れるという変わった趣味もあったが、日曜の朝はバタートーストと紅茶の洋食と決めていました。

なぜこれほどまでに慶喜が好奇心旺盛で多趣味だったのでしょうか?

それは彼の進歩的な、合理的な考えが影響していると考えられます。

写真を撮られると寿命が縮むといわれた時代に、数多くの肖像写真を遺しました。

将軍の座に就く以前から洋食を好み、「豚一」というあだ名で呼ばれていたこともありました。
「豚一」とは、「豚を好んで食する一橋」という意味(「一橋」は慶喜の相続先)です。

将軍になった時は「権現様(家康)の再来」とまで言われました。

当時、慶喜の名声は倒幕派にも知れ渡っており、長州藩の桂小五郎は「一橋慶喜の胆略はあなどれない。家康の再来をみるよう」と警戒していたともいわれています。

さて、お金のほうは徳川宗家から、定期的に「御定金」が送られてきましたし、華士族の秩禄(ちつろく)を廃止する代償に交付された金禄公債ももらい、金銭的に困ることもまったくありませんでした。

慶喜の子孫は?

彼は夜の生活も元気で、111人!の側室に21人もの子供を産ませています。

慶喜が、再び東京に帰ったのは、1897年(明治30)でした。

巣鴨、そして小石川の屋敷で静かに暮らします。

16年後の1913(大正2)風邪をひき肺炎を誘発し、77歳で衰弱死しました。

明治維新の渦中にいた人の中では、もっとも長生きしたといわれていますし、歴代徳川家の中でも最長です(2番目は家康の73歳)。

慶喜の墓は?

慶喜の墓は住みなれた上野ではなく谷中霊園にあります。
彼はかつて朝廷の敵とされましたが、明治天皇によりその罪を許されます。(赦免)。

その上、華族の最高位である”公爵”を親授されました。そんな明治天皇に感謝の意を示すため、慶喜は自分の葬儀を徳川家が代々行ってきた仏式ではなく神式で行なうよう言い残しました。

そのため、慶喜の墓は徳川家の菩提寺である増上寺でも寛永寺でもなく、谷中霊園にあるのです。

さらにお墓の形も皇族と同じような円墳で、これは京都の歴代の天皇陵が質素であることを見て感動したためと言われています。

最後に

いかがでしたでしょうか?
徳川最後の将軍、慶喜は長い余生を趣味に明け暮れ、ストレスの少ない生活を送ってきたからかもしれませんが、大往生で最良の終わり方をしたといえるでしょう。

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